舞台が教えてくれる「他者の靴を履く」ということ。演劇鑑賞による共感力の回復

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はやさ
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自分の視点に凝り固まって、疲れていませんか。

日常生活の中で:

  • 他人の言動にイライラする
  • どうしても歩み寄れないと感じる
  • 「なぜあの人は分かってくれないんだ」と憤る
  • 自分の正義だけが正しいと思い込む

こうした状態は、自分の価値観だけに固執し、心に余裕をなくしている証拠です。知らず知らずのうちに、ストレスを増大させ、人間関係を硬直化させています。

この凝り固まった心を解きほぐす手段として、演劇という文化芸術は非常に有効です。なぜなら、演劇鑑賞は「他者の人生を追体験し、その視点に立つ」という、日常では得難い体験を提供してくれるからです。

この記事では、演劇鑑賞が私たちの共感力をどのように刺激し、ウェルビーイングを向上させるのか、その心理的メカニズムと実践的な鑑賞法を解説します。


目次

なぜ今、共感力が失われているのか

情報のエコーチェンバー

SNSやアルゴリズムは、私たちに自分と似た意見ばかりを見せます。これを「エコーチェンバー(echo chamber)」反響室と呼びます。自分の意見が何度も反響し、増幅され、「自分が正しい」という確信だけが強まります。

結果として:

  • 異なる意見への不寛容
  • 「敵」と「味方」の二極化
  • 対話能力の低下
  • 共感力の減退

効率主義による他者の単純化

現代社会は効率を重視します。他者を理解するには時間がかかります。だから、私たちは他者を「カテゴリー」に分類して処理します:

  • 「あの人は〇〇な人」
  • 「△△世代はこうだ」
  • 「□□な職業の人は~」

しかし、人間は複雑で矛盾に満ちた存在です。単純化することで、私たちは他者の豊かさを見失い、共感する能力を失っていきます。

共感疲労(Compassion Fatigue)

逆説的ですが、情報過多の時代は「共感疲労」も引き起こします。毎日のニュースで流れる悲劇、災害、戦争——あまりにも多くの苦しみに触れすぎると、心は自己防衛として感情を麻痺させます。

心理学者ポール・ブルームは、著書『反共感論』で、共感は時に私たちを疲弊させ、かえって他者への関心を失わせると指摘しています。


演劇が持つ独自の力: 「生身の身体性」

では、なぜ演劇なのか? 映画やドラマではダメなのか?

映画や読書も確かに有効です。しかし、演劇には「生身の人間が目の前で演じる」という身体性があります。この身体性が、私たちの脳と心に独特の作用をもたらします。

1. ライブ性がもたらす「今ここ」の共有

演劇は、観客と役者が同じ時間・空間を共有する唯一の芸術です。

  • 映画: 録画された過去の出来事を見る
  • 演劇: 目の前で「今」起きている出来事を見る

この「今ここ」の共有が、観客に強烈な臨場感と当事者性をもたらします。演劇学者リチャード・シェクナーは、これを「パフォーマンスの現在性(liveness)」と呼びました。

2. 呼吸を共有する親密性

演劇では、役者の呼吸、汗、声の震え——生々しい身体性が直接伝わってきます。

神経科学者ヴィットリオ・ガレーゼの研究によれば、私たちは他者の身体的状態を観察するだけで、自分の身体内でその状態を「シミュレート」します。これが、演劇が映像よりも強い共感を引き起こす理由です。

3. 一回性の特別な体験

同じ演目でも、その日その時の舞台は二度と同じではありません。役者のコンディション、観客の反応、空気の流れ——すべてが一期一会です。

この「今この瞬間しか存在しない」という一回性が、観客の集中力と感受性を高め、深い没入体験を可能にします。


目の前で立ち上がる「他者の人生」への没入

演劇鑑賞が共感力を回復させるメカニズムを、神経科学と心理学の観点から解説します。

1. ミラーニューロン: 脳の中の「鏡」

神経科学的メカニズム:

1990年代、イタリアの神経科学者ジャコモ・リゾラッティらは、「ミラーニューロン(mirror neuron)」を発見しました。これは、他者の行動を見ているだけで、自分がその行動をしているかのように発火する神経細胞です。

演劇鑑賞中:

  • 役者が泣く → 観客の脳内でも「泣く」に関連する神経が発火
  • 役者が走る → 観客の脳内でも運動野が活性化
  • 役者が苦しむ → 観客も痛みを感じる領域が反応

この身体レベルでの共鳴が、共感の神経基盤となります。役者の身体的な動きや表情の変化をライブで目撃することで、私たちの脳は、自分も同じ体験をしているかのような反応を起こすのです。

研究データ:
2016年の研究(Reason & Reynolds)では、演劇鑑賞後に参加者の共感性が有意に向上し、その効果は数週間持続することが示されました。

2. 視点取得(Perspective-taking): 多角的な視点の獲得

心理学的メカニズム:

心理学者マーク・デイビスは、共感を「感情的共感」と「認知的共感」に分けました:

  • 感情的共感: 他者の感情を感じる(「かわいそう」と思う)
  • 認知的共感: 他者の視点に立って考える(「あの人の立場なら…」と理解する)

演劇は、特に認知的共感(視点取得)を強力に促進します。

優れた演劇作品は、一つの正義だけを提示しません。対立する登場人物それぞれの背景や動機が丁寧に描かれることで、観客は自然と複数の視点を体験します:

  • 主人公の苦悩
  • 敵対者の事情
  • 脇役の葛藤
  • 社会的文脈

この多角的な視点の体験が、凝り固まった自分の視点を相対化し、心の柔軟性を取り戻すプロセスとなります。

実例: シェイクスピア『ヴェニスの商人』

高利貸しのシャイロックは「悪役」として描かれますが、彼の独白を聞くと:

  • ユダヤ人として受けてきた差別
  • 娘を失った父親としての悲しみ
  • 尊厳を踏みにじられた人間としての怒り

観客は、「悪役」の中にも人間性を見出し、単純な善悪の二元論を超えた理解に至ります。

3. 集合的感情(Collective Emotion): 孤独からの解放

社会心理学的メカニズム:

劇場では、見知らぬ他者と同じ物語を共有します。心理学者エミール・デュルケームは、これを「集合的感情(collective effervescence)」と呼びました——群衆が一体となって感情を共有する体験です。

演劇鑑賞中:

  • 緊張のシーンで、劇場全体が息を呑む
  • 笑いのシーンで、一斉に笑いが起こる
  • 感動的なシーンで、すすり泣きが広がる
  • 終演後、一斉に拍手が起こる

この他者と感情を共有しているという実感が、孤独感を解消し、社会的つながりを感じる力を回復させます。

研究データ:
2020年の研究(Tschacher et al.)では、演劇鑑賞中の観客の心拍や呼吸が同期する現象が観察されました。私たちは文字通り、身体レベルで他者とつながっているのです。

4. ケア倫理の再確認

倫理学的視点:

哲学者ケアロル・ギリガンは、ケア倫理を提唱しました。これは、抽象的な正義や規則ではなく、具体的な他者への配慮と関係性を重視する倫理です。

演劇は、まさにこのケア倫理を体験させてくれます:

  • 登場人物の苦しみに共感する
  • 彼らが必要としているものを理解する
  • 自分に何ができるかを考える

舞台を通じて他者の靴を履いてみる経験は、他者への不信感を和らげ、ケアする能力を回復させます。


演劇体験をウェルビーイングに繋げる鑑賞法

舞台を観た後、ただ面白かったで終わらせないための、心へのアプローチを紹介します。

実践1: 「もし自分があの場所にいたら」という想像を深める

方法: 終演後、特定のキャラクターの決断について考えてみてください:

  • 「もし自分があの場面にいたら、どうしただろう?」
  • 「なぜあのキャラクターはあの選択をしたのか?」
  • 「自分ならどう感じただろうか?」

なぜ効果的か: 正解を出す必要はありません。他者の人生と自分の価値観を照らし合わせるその過程自体が、自己理解と共感力を深めるトレーニングになります。

心理学者キース・オートリーは、物語体験を「心のシミュレーター」と呼びました。安全な環境で、異なる人生を試行錯誤できるのです。

ポイント:

  • 一人で考えるだけでなく、誰かと対話するとさらに深まる
  • 「正しい答え」を探さない
  • 自分の価値観の変化に気づく

実践2: 劇場という「場所」を意識する

方法: 劇場にいる間、意識的に以下を感じ取ってみてください:

  • 開演前の劇場の空気感
  • 他の観客の存在(咳、笑い、息遣い)
  • 終演後のざわめき
  • 客席全体の反応の波

なぜ効果的か: 観客全員が同じ空間で同じ物語を共有する体験は、見知らぬ他者との間に緩やかな連帯感を生みます。

これは、社会学者ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」に似ています。直接知らない人々とも、同じ体験を共有することで、つながりを感じられるのです。

劇場の空気感や、他人の拍手の音、終演後のざわめき——それらを身体全体で受け止めることで、孤独感を解消し、自分が社会の一部であるという感覚を補います。

ポイント:

  • スマホを見ない(完全に「今ここ」に集中)
  • 周囲の人々を敵ではなく、体験を共有する仲間として感じる
  • カーテンコールで拍手するとき、自分も他者も祝福していることを意識

実践3: 登場人物の「背景」を想像する

方法: 舞台に登場しなかった部分を想像してみましょう:

  • このキャラクターの子ども時代はどんなだったか?
  • 今日ここに至るまでに、何があったのか?
  • この後、どんな人生を送るのだろう?

なぜ効果的か: 人は誰でも、見えている部分以上の複雑な物語を抱えています。舞台で見た2時間は、その人の人生のほんの一部です。

この想像力の訓練は、日常生活でも活きます。イライラする同僚、不機嫌な店員——彼らにも見えない背景があると想像できるようになると、寛容さが生まれます。

ポイント:

  • 脇役にも注目する
  • 「悪役」の事情を想像する
  • ステレオタイプで判断しない

実践4: 自分の感情の変化を記録する

方法: 鑑賞後、ノートやスマホに感情の変化を記録してみましょう:

  • どのシーンで何を感じたか?
  • なぜそう感じたのか?
  • 終演後の気持ちの変化は?

なぜ効果的か: 感情を言語化することで、自己理解が深まります。また、同じような状況に出会ったとき、「あのとき舞台で感じたこと」が共感の引き出しとして使えます。

ポイント:

  • 「つまらなかった」も正直に書く
  • なぜそう感じたか、自分の価値観を探る
  • 数ヶ月後に読み返すと、自分の変化が分かる

演劇鑑賞の副次的効果: ウェルビーイングへの多面的貢献

演劇鑑賞は、共感力以外にも様々なウェルビーイング効果があります。

1. 感情の浄化(カタルシス)

アリストテレスは、演劇が「カタルシス(浄化)」をもたらすと説きました。舞台上の悲劇や葛藤を目撃することで、観客は自分の中の抑圧された感情を安全に解放できます。

2. 人生の意味の探求

演劇は、普遍的な人間のテーマを扱います:

  • 愛と喪失
  • 正義と復讐
  • 自由と責任
  • 生と死

これらのテーマに触れることで、自分の人生の意味を再考するきっかけになります。

3. 美的体験による心の栄養

美しい舞台美術、音楽、照明、役者の身体表現——演劇は総合芸術です。美的体験は、それ自体が心の栄養となり、日常の殺伐さを癒やします。

4. 知的刺激

複雑なストーリー、象徴的な演出、多層的なテーマ——演劇は知的好奇心を刺激します。理解しようと努力することが、脳の活性化につながります。


どんな演劇を観ればいいのか?

初心者におすすめ

  • 古典演劇: シェイクスピア、チェーホフ、モリエールなど → 普遍的なテーマで共感しやすい
  • 現代劇: 平田オリザ、野田秀樹など → 現代社会の問題を扱い、身近に感じられる
  • ミュージカル: 音楽と物語の融合 → 感情に直接訴えかけ、没入しやすい

共感力を特に鍛えたいなら

  • 対立するキャラクターが丁寧に描かれた作品
  • 「悪役」の視点も描かれる作品
  • 社会問題を扱った作品(貧困、差別、戦争など)

小劇場 vs 大劇場

  • 小劇場: 役者との距離が近く、身体性を強く感じられる
  • 大劇場: 壮大な演出、プロの完成度

どちらもメリットがあります。両方体験してみてください。


おわりに: 心の「余白」は他者を受け入れることから始まる

自分だけの視点に閉じこもっていると、世界は狭く、息苦しい場所になってしまいます。

演劇は、そんな私たちの心に、他者を受け入れるための隙間を作ってくれます。

他者の人生を追体験し、その痛みに共感し、その喜びを分かち合う——そんな贅沢な2時間が、結果としてあなた自身の心を健やかに整え、明日を生きるためのしなやかな強さを与えてくれるはずです。

次の週末、劇場に足を運んでみませんか。
そこには、あなたがまだ知らない「他者の人生」が待っています。


さらに深く学びたい方へ

推薦図書

  • キース・オートリー『心と物語——認知科学から見た文学と芸術』
  • マーク・デイビス『共感の社会神経科学』
  • リチャード・シェクナー『パフォーマンス理論』
  • ケアロル・ギリガン『もうひとつの声で』

演劇を体験できる場所

  • 各地の公共劇場: 新国立劇場、世田谷パブリックシアターなど
  • 小劇場: 東京芸術劇場、シアタートラムなど
  • 演劇祭: 利賀演劇祭、フェスティバル/トーキョーなど
  • オンライン配信: 演劇のライブ配信やアーカイブ

観劇は、自分への投資です。
他者を理解する力は、あなた自身を豊かにします。

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